今日、人間そのものの位置と状態を問おうとする議論はすべて、ある意味では両層把握の枠内のなかにさまざまな色模様を描きながらすっぱりと収まるのものです。
そのつどどのような観点からどのような色合いをもつ人間論を構築するにせよ・・・
まずはそうした両層把握の枠組の全体を見通しておくことが肝要でしょう。
ちなみに、ハーバマースのいう「社会統合」と「システム統合」とを、ここでいう表層形態と深層構造とに関連づけ対応づけて考察するといったアプローチをとれば、議論はもっとアカデミックな色調を帯びるでしょう。
しかし、ここではそういうことは意図していないので割愛します。
「ドライヴィークル」論とここでの「動員」論とはもちろん密接に関連しています。
同じひとつの事態を別々の概念用具を用いて言い表わしたにすぎません。
エネルギー個体にまで解体されてそれが動員主体の存在しない形で動員されるというこの粒子性と受動性・・・
これこそが現代人の不安や不確実性の根源をなしており、それがまたあれこれのドライヴィークルを追い求めさせることになるのです。
「連帯-集団の成員が、利害関心、目的目標、あるいは原理原則に関して王者の合意(ローヤル・アグリーメント)を結ぶこと」
「いくらきみが頭痛に病んでも世間は改まりはしないよ。
時代の風潮に対するきみの大げさな義憤がかえって世間から馬鹿にされることになるのだ。」
「いよいよ結構だ、それが何だ!」